その175 湊川高校で『田中正造』を上演するまで
1979年11月13日。
兵庫県神戸市長田区にある定時制の湊川高校で
『田中正造』の芝居が上演されました。
この公演が行われた背景にはどのような理由があったのでしょうか?
林先生は、沖縄の那覇小学校での授業を終えた
同年の2月に初めて湊川高校で授業を行いました。
林先生はその体験について次のように述べています。
「私には奇跡としか思えない事がおきた。
それがきっかけになって、
私は継続的に湊川に入って授業をすることになった」
この「奇跡のような出来事」については、
林先生が記した本「教育の再生をもとめてー湊川でおこったこと」と
写真集「学ぶこと変わること」に詳しく書かれています。
<本の写真を紹介しておきます>
この2冊の本の中から
林先生が奇跡として書かれているいくつもの出来事のうち、
特に印象的な二つを紹介します。
1977年2月の最初の授業
「人間についてーアマラトカマラ」では、
最前列で林先生のすぐ前の机で頬杖をつき
なにする気やねん?という構えでいた朴隆章が、
次の5月「開国」の授業では背筋をシャンと伸ばし
授業を受けていました。
また、「アマラとカマラ」の授業後の感想文で彼は
「妹が死んだときは涙がざーと出た」と書いていました。
これは姉・カマラが妹・アマラの死を知り目から2粒だけこぼした
悲しみについての内容なのですが、
実は彼が授業の感想文を書いて提出したのは
これが初めてのことだったのです。
↓最初の授業(2月) ↓5月の授業時
加藤好次は小学校の時から特殊学級の生徒で、
「おれはアホや」と自己否定を続け、どもりがひどくなっていました。
しかし「人間について」の授業を受けた後、
彼の感想文にはこうありました。
「きょうの授業はなんとなく、いつもとちがうような感じがするねん。
中学の先生も来とうし、お仕置きでもちがうんかなと思た。」
「林先生は、おれらには、幸(やさ)しすぎる」
彼にとって教師はこれまで自分たちを
罰する存在でしかありませんでした。
しかし林先生の授業を受け、その教えによって
自己否定を続けていた彼が自信を得たのです。
はじめて産婆役となる教師に出会った彼は
その後、仕事も落ち着きどもりも治まってしまいました。
これらの出来事に
林先生は次のように述べています。
「彼らは私の授業をまっとうに、重く受けとめてくれた。
人間が人間であるためには、どうしても学ばねばならない大事なものがある。
それを学ばなければ、人は人間であることを止めねばならない。
「私の人間の授業を最も深く学んでいるのは、
社会的にもっとも苛酷な条件下で働き生きることを強いられている
部落出身者や在日朝鮮人の子弟であり、
小中学校で無残な位置に置かれた生徒たちである。
このことは明記しておく必要がある。」
また、芝居が上演された湊川高校は、
社会的に厳しい状況にある生徒や、
教育の現場で見捨てられがちな生徒たちを
積極的に受け入れていました。
そして、学校教育の実情に対し
「日本の学校教育は、無数の子供を切り捨てているだけではない。
その切り捨ての上に学校教育がなりたっているのである。」
と厳しい言葉で警鐘を鳴らしています。
林先生は、その後も何度も湊川高校と尼崎高校で授業をされ、
私も2度お供をしました。
そして2年目の夏に、
「湊川で田中正造の芝居をしないか」
と提案されました。