その174 遊水地にされた村と、残った118人
足尾鉱毒の被害を受けた人々への補償金は
当初、古川工業が支払いをしていました。
しかし、政府と県が事態に介入し、
法律を改変して公金を投入する一方で、
谷中村の残留民の住居や作業小屋を強制的に破壊し、
村全体を鉱毒の水を貯める遊水地にしてしまいました。
それでもなお、19軒118人の住民が村に残ったのです。
田中正造はその中に入って共に暮らすことを決意します。
しかし、林先生は
「教えようとする意志が彼をひどい盲目にしていた」と指摘します。
田中正造は残留した谷中村の住民を「太古の民」と見ていました。
彼は日記にこう記しています。
> 『谷中の人民は道理によって腹を立てることを知らない、誠に太古の民で、憤ること少なく、而も忽ち忘れる』
そのため、正造は住民たちを教えて導かねばならない人々と見ていました。
ところが住民と3年暮らす中で、
正造は彼らが心の奥底に深い憤りを抱き、
その怒りの表し方が自分たちとは異なることを知るようになります。
憤りの根拠は、自然と人間の根源的な在り方に対する強い信念に基づくものでした。
田中正造がそのことに気づいたきっかけは、
残留民二人の死と事態に立ち向かう夫婦たちとの出会いからでした。
一人目は、長年の水害と仮小屋生活の末、亡くなった住民が
「事件の解決を見ずに死ぬのが実に残念だ」
と言い残し、正造が医師を連れて戻る前に息を引き取ります。
二人目は、親戚からの移住の説得をきつく断り、
「我は死すともこの地を去らず。無法無政府の現在、
いずれの地に至るも人民の保護なしと信ずる」と残し
破壊された自宅の青く茂った樹の下で横たわって亡くなりました。
買収に応じ移住した親戚の説得に対して
「われらは正しく貧苦に居るもの。人の富はうらやましからず。
我ら夫婦は人の害となることはせざるなり」
と通常の暮らしを続けた夫妻。
打ち壊しに立ち向かう100人の警官に対し、
「吾らは天理に生きる人間なり。
その人間を放り出すという法律があるなら、そう法律にかかりましょう」
と家の中に座り込み、担ぎだされるまで動かなかった老夫婦。
こうした出来事を経て、
田中正造は初めて残留民たちが
「天理に生きること」
すなわち「天地自然の原理」という哲学に基づいて
行動していることに気づきました。
そして、日記に次のように書き残しています。
> 『五ヵ年その徳を発見せざるは、予は目なし、耳なし、愚人中の愚人というべきのみ』
田中正造が信じて戦ってきた「国家と法律によって守られるべき権利」が、
「天理に生きる」残留民によって根底から打ち砕かれた瞬間でした。
林先生はその後の著書で、
「もし谷中人民が、田中正造たちが期待した形で
怒りを表現する”人類”であったならば、
谷中の戦いは強制破壊と共に消滅したであろう。
谷中の戦いを救ったのは、彼らのこの覚悟であった」
と述べています。
その後、田中正造は指導者の立場を辞め、
一人の残留民として最後まで戦い続けました。
そして、残留民たちは見事な撤収作戦を成功させ、
「谷中の残留民はいまなお戦いをやめていないのである。」
と著書は締めくくられています。