その173 谷中村とはどんな村だったか
田中正造が命がけで入った
「谷中残留民」はどのように生まれたのか?
著書では次のように書かれています。
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「谷中村は堤防の村であった。」
「田中正造の遺愛の弟子島田宗三は、
失われてしまった谷中村をこう語っている。
『谷中村は栃木県の南端、群馬・埼玉・茨城三県の県境にある。
草創は文明年間(1469年)、
明治37年(1904年)の買収当時は戸数450戸、人口3700人、
土地1200町歩、周囲約3里半の堤防で、
渡良瀬川、思川、うずま川に囲まれ、たまたま洪水があれば
山間の肥土が流れ込むので、無肥料で作物が繁茂し、
漁獲の収入も多く、実に豊かな村であった。」
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3つの河川の合流地点に在った谷中村は
周囲を「輪中」と呼ばれる堤防で囲まれており
三年に一度ある洪水で破れた堤防から川水が
足尾の山の肥沃な土を運び込んで置いていってくれたのです。
その恩恵で、無肥料で作物が余るほど実り、
川魚も豊富で収入も多く、桃源郷のような村であったのです。
しかし、足尾銅山の開発が進むと
銅の精錬による鉱毒がこれらの河川を通じて流出し
その豊かな大地に甚大な被害をもたらしました。
田畑の土はガチガチに固まり、
川の魚たちも次々と死滅。
さらにその被害は谷中村だけではなく、
渡良瀬川流域周辺位も及び、
住民の生活基盤は崩壊の一途をたどりました。
明治29年1896年時点での被害地の詳細な記録が残っています。
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「1府5件1市20郡251か町村、戸数11万9千331軒、
人口51万7千 343人、田畑10万453町歩」
※町歩は、主に農地の面積を表すのに用いられます。
1町歩は約3000平方メートル。
10万453町歩は約31.6平方キロメートルであり
東京ドーム約672個分
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足尾鉱山で銅の精錬が始まったのが
明治10年(1877年)ですから19年間で
これだけの被害が出ています。
鉱毒の被害は川が運ぶ鉱毒のみならず、
精錬の過程で出る煙の害も激しく、
足尾山中に在った3つの村は既に廃村となっていました。
被害が進んだのは明治17年からで、
銅の産出量が急激に増えています。
それに伴い、江戸時代から町民村人たちで
守ってきた豊かな森の木々はことごとく切られ
精錬の為に燃やされました。
足尾の山々は次々と裸にされ、一帯が禿山となりました。
まもなく開発から150年が経つ今でも
全てが回復に至っておらず、
ボランティアによって植林が行われています。
2011年の東日本大震災の時には、
渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、
21世紀となった現在でも影響が残っています。
足尾銅山を経営していたのは古川鉱業株式会社です。
一つの民間企業がどうしてここまで大きく深刻な被害を
自然と国民に与えることが出来たのかという疑問が残ります。
田中正造は
「公の利益のために政府と一企業が結託して、広く人民に害を及ぼすこと」
を[公害]と初めて命名した人です。
公害による自然破壊や環境汚染への問題は
今や世界共通で取り組んでいる重要課題となっています。
しかし、その実態の多くは我々一般市民が強く望み
進めた開発によるものではなく
個人や1企業が出している害ですから、
[私害]とも呼べるかもしれません。