その171 設立34年目に、田中正造を読む
林先生から頂いた「田中正造の生涯」を
お聞きの皆さんにも是非読んで頂きたいと思い
ネットで調べてみましたが痛んだものか
やたらと高価なものばかりが出てきました。
気軽に手に入らない状況だからこそ
文章に散りばめられた日本の未来に対するメッセージ、
そして、明治から大正にかけて
日本の水がどのように変わってしまったのか、
ぜひ皆さんに共有できればと思います。
まず、田中正造の紹介を本から抜粋します。
現代では不適切とされてしまう表現がありますが
ここでは林先生の意図を汲み、
著書内の表現をあえてそのまま記載します。
『田中正造は安政四年(1857年)、
17歳で父の跡をうけて小中村(現在の栃木県佐野市小中町)の名主となった。
しかし彼には、身分の意識はうすかった。
名主である前に、百姓であった。』
「17歳から29歳までの12年間、小中村の名主であった。
彼は小中村という<古来の自治村>の小さな政治のなかで、
政治的基礎経験を持ったのである。』
この経験について林先生の解説が入ります。
『私がここに、村の<小さな政治>について語るのは、
明治政府の手でつくり出された中央政府(当時の大日本帝国政府のこと)の
足台になり下がった「自治体」の町村政治とは、
まったく異質の<政治>がそこにあったからである。
村の政治とは、本来的には人民<同じ百姓仲間>の
共通の問題<公共の事>を処理することで、
まったく非権力的な、人民自身の<事務>であった。』
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人間の成長期にある意味、特殊な体験をし
それに伴う思想を身に付けた田中正造は
栃木県会議員を経て、明治23年(1890年)7月の
第1回総選挙で衆議院議員に当選します。
その翌8月に、渡良瀬川の大洪水が発生。
鉱毒被害があらわになり、
正造は直ちに現地の実態調査に取り組みます。
調査、といってもデジタルは一切ない時代ですので
鉱毒の被害を被っている全ての地域へ
歩いて出向き、現地の人々へ聞いて回りました。
そして、1年以上にわたる現地調査を元に
明治24年12月の国会にて質問書を提出しますが
ほとんど無視されてしまいました。
これに関して、林先生は次のように書いています。
『彼が明治24年12月に、鉱毒問題を取り上げたとき、
彼は、人民の生活と生命と、そして権利に、
文字通り死活的に深くかかわっているこの問題の解決に、
政府も政党も議会も当然責任を持つものであろうと
信じていたにちがいない。
だが、政治とは、田中正造の考えていたように
それほどまともに公共の事に従う事業ではなかった。』
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田中正造は政治のあるべき姿を求め、
その後もたびたび質問書を国会に提出し
新聞等を通じて、世間にも訴え続けました。
そして、10年後の明治33年2月17日。
議会で行うのは最後となった演説にて
鉱毒事件の歴史の真相を簡潔に語っています。
『簡単に歴史を申し上げますと、
この鉱毒が流れ始めたのは、明治12年からです。
毒が流れ始めたのを栃木県知事が見つけて
明治13年〜15年にやかましく言うと、
この知事がたちまち島根県へ追放されたのが、
政府が鉱毒に干渉した手始めである。
その後の知事は、鉱毒ということを
言ってはならないようにしてしまった。
それがために無心な人民は10年、鉱毒を知らずにいたが、
23年経って不毛の地ができた。
これに非常に驚いて初めて騒ぎ出した。
それが、明治23年からでございます。』
桃源郷とまで言われた豊かな渡良瀬川流域。
そこには広大な土地と自然と生きる人々の暮らしがありました。
しかしそれは、約20年を掛け根底から失われていき
その事実が世間に広まっても
政府は足尾鉱業のみを守る施策で
ごまかし続けてきたと、厳しく指摘し、
最後に
「これ則ち亡国の所業なり、亡国に至たらざるを知らざれば、真の亡国なり」
と、後に<亡国演説>として知られる演説で締めくくります。
この演説の後、議員を辞職して天皇へ直訴します。
そして遂に、田中正造は議会で戦うことを打ち捨てて、
鉱毒被害地で戦い続ける「谷中村の残留民」の中に入って行くのでした。