全国の自治体から集めたアンケートで
「プラスチックごみ問題は、ごみ全体の処理システムをつくることでしか解決できない。」
ということを、明確に認識した協会は新たに3つの方針を定めました。
【1. ごみ焼却炉メーカーの技術開発の協力を行うこと】
【2. 埋立て処分の高度無害化方法の開発を推進すること】
【3. ヨーロッパとアメリカのごみ処理先進地をレポートし、国民全体の理解と協力を高める社会教育活動をすること】
これらの活動を進めるべく、各所担当が決まり、
私はグループ現代で産業映画の企画とプロデュースをしていた経験から、
協会の調査委員と一緒にヨーロッパとアメリカの都市の実情を取材し、
教育映画を作ることになりました。
早速、ごみ処理先進国の実情を調べた過去資料が渡されます。
その資料に基づいて私が書いたシノプシス=取材台本が
「ごみと社会 - 世界のゴミ処理システム」です。
※古い資料ですが残っておりましたので、本章の一番最後に載せています。
このシノプシスには
当時の日本のごみ情況について書いた文章があります。
どのような状況だったかが良く分かりますので紹介します。
「1 日本の状況
ヨーロッパのようにやるには、消費文化の虜になりすぎており、アメリカのように進めるには、資金も人材も政治も不足している。
日本の廃棄物問題=行政の不統一、行き当たりばったりの施策、住民の無関心とエゴイズム、企業理念と住民感覚の並行的対立、投資の不足、生活習慣の混乱、等々、どうしようもない日本の状況を、取材した事実によって「その通りだ」と共感し合える共通の情況認識を構築しましょう。」
上記はこれから作ろうとしている映画の目的を述べたものですが、当時の日本はまさにこのような状況だったのです。
取材先のアポイントや航空券の手配は協会のPRを担当している会社が全て対応してくれました。
ただ、当時のドル相場は1ドル 300円の時代です。
撮影スタッフを沢山連れて行けるわけもなく、取材班は私とカメラマンの2人に制限されました。
私は迷わずカメラマンを当時のグループ現代の中で敏腕カメラマンで合った堀田泰寛さんに決めました。
堀田カメラマンは、前作の「よみがえるプラスチック廃棄物」の撮影を担当しており、
私自身としても信頼のおけるカメラマンでした。
ごみを撮ることは、簡単そうに見えますが正しい記録として撮影するには実は非常に難しいのです。
ごみにはごみとなるまでの生活背景があります。
前作で私は「その背景までを撮ってほしい」と彼に話しましたところ、堀田カメラマンはそれを見事に撮影してくれたのです。
今度は世界のごみから見えてくる、地域の人々暮らしを撮れるのは彼しかいないと確信しての依頼でした。
しかし、一言に映像を撮るといっても照明も録音も必要です。もちろんそれらの機材も持っていかなければいけません。
今ではスマートフォン1つで撮影できますが、当時はひとつひとつの機材も大きく、必死に個数ギリギリで荷物をまとめました。
なんとかまとめた荷物を担いで、私と堀田カメラマン、そして協会メンバーであり、塩化ビニール樹脂メーカー大手日本ゼオンに勤めている飯島林蔵さんを含めた3人で「羽田空港」から出発しました。
それは1975年10月17日。まだ成田空港はありません。
南回りの安い航空券で最初の取材地、フランスのパリへ向けて飛び立ったのです。
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