次回作に向けて、プラ協の広報委員会の会議が開かれました。
その会議の中で
「映画を見て、人々はごみについての意識・関心が高まっている。
次は、自分の暮らす地域のごみについて考えてもらいたい」
ということになり、そのために必要な情報はなにか、について話し合いました。
メンバーである広報担当の伊佐治さんは、国内でごみ処理を先進的に取り組んでいる自治体をすでに調べてまとめてくれていました。
出された資料からいくつか候補地が選ばれ、まずは私がシナリオハンチングを兼ねて現地調査を行ってレポートを作成しました。
そして再度会議を開き、協会内で検討を重ねて最終的に選ばれたのが6つの自治体です。
北は北海道札幌市と岩手県の遠野、関東圏は、神奈川県川崎市と群馬県伊勢崎市、西は大阪府大阪市と福岡県北九州市です。
実は映画の撮影中に出会った自治体のみなさんは、その後の日本のごみ処理技術の進展に大きく貢献されました。
映像も資料も残っていないのですが、ぜひみなさんに知っていただきたいと思いますので
ここでご紹介します。
まず、川崎市で助役にまでなった清掃局長の工藤さんです。
この方は、清掃局長時代にごみ収集パッカー車の設計開発に携わった方でした。
今では一般的なあの収集車ですが、それまではごみを頭の上まで持ち上げてトラックに積んでいました。
作業員の負担をもっと楽にできないかと考え設計されたのが、今のパッカー車です。
設計内容で特許を取得し、なんとその特許を無料で一般公開することで全国に普及しました。
「腰までの高さで出来るようにするのが願いだった」と、
映画撮影時のインタビューで語られていました。
現場の声が伝わって、ごみ収集車が進化した歴史があったのです。
次に、札幌の及川清掃局長です。
及川さんは清掃畑一筋の方で、先に紹介した川崎市の工藤さんが開発されたごみ収集パッカー車をいち早く取り上げ、導入されました。
一方、寒冷地の汚水処理に関してのエキスパートとして、昭和31年、1956年の第一次南極探検隊に同行して南極昭和基地のトイレ建設と処理システムを造った方でもありました。
そして、最後に大阪市のごみ焼却場工場長をされていた清水利宣(としのぶ)さんです。
清水さんはごみ焼却炉に関することなら特別に詳しく、工場全体の音を聞けばどこで問題が起きたのかわかるのだそうです。
そんな清水さんは、焼却炉製造の大手企業に呼ばれ新たな製品開発に大きく携わることとなります。
そして部品の材質や構造について細かくアドバイスをし、日本のごみ焼却技術の発展に大きく貢献されました。
以上のことは、私がインタビューして分かったことです。
お三方の実績は、私の知る限り、現在どこにもその記録を見つけることはできませんでしたが、
日本の清掃の歴史、ひいては日本の戦後文明発展の歴史にその名が刻まれるべき功績であったと思っています。
更に、ごみの焼却エネルギーを有効利用することにおいても、他の地域に先駆けて実現されていたことで大きな実績がありました。
次回は、そのことについてご紹介します。
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